近世の村の戸数の固定化

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朝陽(あさひ)地区には近世には五村と二つの新田村があった。そのうち北堀(きたぼり)・南堀・石渡(いしわた)・北尾張部(おわりべ)が四〇戸から六〇戸ぐらい、北屋島(四ッ屋)と南屋島が九〇戸から一〇〇戸ぐらいだった。北屋島は弘化(こうか)四年(一八四七)と安政(あんせい)三年(一八五六)が同じ九三戸、明治元年(一八六八)までに一戸だけ増えた。安政三年と明治元年を比べてみると、南堀・石渡・北屋島の諸村は、一、二戸増えただけである。北長池は一戸減である。近世後期には、新しい耕地が増えず、どこの村も戸数がだいたい固定化していた。ただし、北堀は減少している。用水の不足によるものだろう。


表1 朝陽地区集落(町・区)別戸数・人口