戸数・人口の急増

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朝陽村成立の翌年の明治二十二年と平成九年を比べてみると、戸数はほぼ九・五倍、人口は五・七倍になっている。大正中期から昭和初期にかけて人口は停滞しており、大正八年(一九一九)から昭和十五年(一九四〇)まで約二十年に人口はわずかだが減少している。その後は増加するようになったが、その増え方はゆるやかだった。例えば昭和二十五年から三十年までの五年間に人口は五一人増えただけである。その後は急増し、昭和三十年から五十年までの二〇年間に二・四倍にもなった。その後は増加のスピードは落ちたが、着実に増えつつある。昭和三十二年と平成九年とを比べていちばん増加率の高いのは北堀で八・七倍、ついで石渡四・七倍、南堀四・四倍、北尾張部三・八倍、北長池二・八倍等、南に下るほど増加率が低く、屋島はほとんど増えていない。ただし、平成九年度にはオリンピック施設メディア村が北長池に建設され、オリンピック後住宅として使用されるので、南部にも戸数、人口が急増する。


表2 朝陽村の戸数・人口


写真3 朝陽地区の行政の中心地 左朝陽小学校とJA支店、右朝陽支所・公民館入り口、右手前朝陽郵便局