律令制はしだいに崩壊(ほうかい)し、各地に荘園が形成されるようになる。朝陽地区のかなりの部分は、東条(ひがしじょう)荘に属していた。この荘園は、鳥羽上皇が保延(ほうえん)三年(一一三七)に建立した安楽寿院領として、平安時代末期に成立した。間もなく鳥羽上皇の皇女八条院に譲られ、のちには大覚寺統に伝えられた。その範囲は、高井郡と水内郡にまたがっていた。嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)の諏訪上社の頭役等を定めた鎌倉幕府下知状案によれば、荘内に「石渡戸」(石渡)が含まれていた。また、天正(てんしょう)六年(一五七八)の『上諏訪大宮造宮清書帳』には、尾張辺・今井(石渡)・石和田(石渡)・南堀・北堀の名が見える。地頭は和田氏などであった。北長池には「九門(くもん)前」「公門所」という小字名があった(『北長池誌』)。「公文(くもん)」は庄園の事務所を指すことが多い。また「領家(りょうけ)田」という小字もあった。北長池には荘園領主の事務所があったらしい。