三 条里的地割り

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 条里制は古代の土地区画方式で、一町(六〇間・一〇九メートル)ごとに碁盤(ごばん)の目状に土地を区切る。律令(りつりょう)制では、条里制によって人民に等しく口分田(くぶんでん)を支給する班田収授法が実施されていた。そのため条里制の遺構のある土地は、古代以来の古い耕地と考えられる。しかし、現在残っている条里的地割りが、そのまま大化の改新にまでさかのぼることのできるような古いものであるかどうかは疑問である。

 こうした地割りは善光寺平の広範囲に広がっているが、朝陽(あさひ)地区では、北堀(きたぼり)・南堀(みなみぼり)・石渡(いしわた)・北尾張部(おわりべ)のほぼ全域と、北長池の北西部に残っている。朝陽地区を東西に通る国道一八号を例にとれば、尾張神社前交差点から木工団地入り口交差点までと、同交差点から北尾張部交差点までとは、等間隔(とうかんかく)になっている。これは偶然ではなく、条里的地割りのなかを国道が通っているためである。

 文政(ぶんせい)八年(一八二五)の北堀村絵図面(図1)をみると、この村がきちんとした碁盤の目のような線(道や畦(あぜ))の上にあることがよくわかる。これは航空写真でもはっきりわかり、現在の信州大学附属長野小・中学校のあたりから北堀集落のあたりは、四角にきちんと区切られた田が並んでいる。この条里的地割りは石渡、北尾張部などでもはっきり見える。


写真4 条里的地割りの残る北堀 信州大学附属長野中学校付近


図1 北堀村絵図 (『北堀誌』による)

 朝陽地区西部には、条里の南北の線がよく残っている。北堀の西北、もとの貯水池の西、浅川の上手下から、電鉄を横切り、石渡の西、八幡神社の前を通り、尾張神社の西で国道一八号を越え、北八幡川を越え、南八幡川に達する道は、昭和三十年の地図で確認でき、今も大部分が残っている。この道は山道(三登(みと)山の入会地へ通じる道)とも呼ばれていた。石渡集落南には、この通りに平行して三本の南北の道があり、五本目は、ほぼ県道三才大豆島線である。いずれも六〇間(一〇九メートル)の間隔である。この道の二本は、北長池の長池水原(みなもと)神社の南の小さな崖(がけ)(岨(はば))で終わっている。その南は裾花(すそばな)川の旧川筋である。ごく大まかにみても、朝陽地区の条里は、浅川から裾花川にわたるほとんど全域にあったらしい。なお、この条里のなかの北長池集落の西に「公文」がある。

 北堀・南堀・石渡・北長池はすべて条里のなかの村だった。これらの条里がいつつくられたかはっきりしないが、このような大規模の条里は、武士が対立抗争しているような時代にはできないから、原型は律令制がおこなわれていた平安時代中期以前であろう。

 なお、南部地区土地改良事業が昭和二十六年に完成、北長池を中心に六四町歩が耕地整理されたので、そのあたりは昔の条里は残っていない。