南堀館跡

544 ~ 545

長野電鉄朝陽駅の南側にある。北堀・南堀という地名は、この館跡の堀に由来するという。明徳(めいとく)三年(一三九二)の高梨朝高とその一族の領地書上げによれば、東条荘内に「堀郷」があり、当時すでに居館があったことがわかる。室町時代は高梨氏が在館したという。地元の伝承によれば、戦国時代は村上義清の臣小田切主水(もんど)正之が居住したというが、確証はない。寛正(かんしょう)七年(一四六六)和田に香坂氏の代官小田切下総(しもうさ)貞遠がいたから(『諏訪御符礼之古書』)、その関係者か。戦国期の武田領時代には、武田の番士がいた可能性がある。この館跡の周辺に現在も甲州系の姓が多いのは、そのためだといわれる。二重の堀があり、内堀は東西約五十四メートル、南北約七十二メートル、外堀は東西約百八メートル、南北約百四十四メートルである。大正年間(一九一二~二六)まで、四隅に山王社(東北)・八幡社(北西)・春日社(南西)・諏訪社(南東)が祭られていたという。昭和三十年(一九五五)ころまで堀や土塁の一部が残っていたが、現在は平地となって館跡の面影は失われている。