中世の朝陽地区の村々

552 ~ 553

朝陽地区の大部分には条里的地割りが残っており、平安時代にはもう開拓されていたことが明らかである。尾張部(おわりべ)・長池・石渡(いしわた)・堀は、鎌倉時代には集落としてできていた。これらの諸村は国衙(こくが)領(国府の支配する地)だったが、東条荘ができて、荘園と公領が入り交じっていた。鎌倉時代末、長池は和田氏の領地と三善時連(ときつら)の領地とに分かれていた。時連は問注所執事という幕府の重職にあり、信濃守にもなった。北長池の公文(くもん)所はその代官のいたところかもしれない。

 和田には和田氏という武士がいたが、高井郡の高梨氏の力が強くなり、南北朝時代には和田・高岡(東和田か)付近は高梨本家の領地、石渡・堀・尾張部などは、その一族の領地だった。北長池郷は天正(てんしょう)六年(一五七八)、南堀(みなみぼり)・北堀(きたぼり)両郷は明応(めいおう)九年(一五〇〇)にそれぞれ史料にみえ、室町時代には、長池・尾張部・堀はそれぞれ近世のように二つの村になっていた。石渡には、石渡戸・今井の二村があったらしく、二人の武士が住んでいたが、近世には一村になった。屋島は「矢島郷」として天正六年の文書にみえるが、亡村になっていたところへ、近世になって高井郡綿内(わたうち)村土屋坊(どやぼう)組(南屋島)と同郡福島(ふくじま)村西組(通称四ッ屋、北屋島)ができた。明治十九年(一八八六)合併して屋島村となった。