松代藩は拝領高一〇万石だったが、新田が加わって、寛文(かんぶん)三年(一六六三)に約十一万六千石、幕末に約十二万四千石だった。そのうち、約四割は藩士知行地として藩士にあたえられていた。土地には、藩士の知行地と蔵入地の二種類があった。藩士知行地は寛保(かんぽう)元年(一七四一)から半知といって半分が藩に引き上げられ、藩士の治め方にもいろいろ制限が加えられた。
朝陽地区の村々は藩士知行地が非常に多かった。石渡村は二八七石余りが小山田采女(うねめ)知行だった。小山田氏は一一六九石の高禄の士で真田氏の親族であり、小山田主膳(しゅぜん)(母は藩祖信之の姉)は石渡に地蔵寺を建てた。
寺を建てられるものはいいが、ふつうの藩士は貧乏なものが多く、知行地の百姓から借金することが多かった。寛政(かんせい)六年(一七九四)、金井伊膳は北堀村の知行地の百姓から六〇両を借用した。その金は名主利左衛門が自分の田地を担保にして借りたもので、もし金井が返済しない場合は、ほかの百姓が連帯責任で利左衛門に返済すると約束した。この証文は北堀区有文書に現存するから、この借金はたぶん返済されなかったのだろう。
延宝(えんぽう)二年(一六七四)、松代藩領に「二斗八(にとはち)騒動」という騒動があった。
松代藩の年貢は籾(もみ)何俵と計算され、籾一俵は五斗三升入りだった。藩士のなかには、籾でなく玄米で納めろと百姓に要求するものがあり、そのとき、籾一俵につき玄米三斗(五四リットル)としろと命じた。そこで下高田村(南高田)の助弥(すけや)、南堀村の金丸某らは幕府へ直訴して、これを二斗八升(五〇リットル)に引き下げさせたが、自らは死刑にされた。殺される直前に二斗八だぞ」と叫んだといわれる。後世助弥は二斗八様と称されて神に祭られた。金丸の嫡孫徳兵衛は文政(ぶんせい)六年(一八二三)、神社の境内(現在は県道かたわら)に「金丸氏先祖霊神」の碑を建ててその霊をなぐさめたという。