朝陽地区は昭和三十年(一九五五)ころまで純農村であり、水田が多かった。昭和三十二年当時、戸数七八七戸のうち農家六二四戸、うち専業二四四戸、耕地四三四町歩、うち田二四〇町歩、畑一九四町歩で、田の方が多かった。村内には千曲川に合流する南北八幡川、四ヶ郷用水および六ヶ郷用水があって、それぞれ田の用水として重要なものだった。
地内は北部(北堀(きたぼり)・南堀(みなみぼり)・石渡(いしわた)・北尾張部(おわりべ)・北長池)と南部(屋島)とに二大別される。北部は用水不足による干害に苦しみ、南部は千曲川の洪水に苦しんだ。土壌は北部は粘土壌、南部は砂壌土である。
北部旧五ヵ村は八幡山王堰(せぎ)組合(三一ヵ村)のうち旧松代藩領の梁手取(やなてどり)組合(二二ヵ村)に属している。梁手というのは、八幡山王堰へ水を取り入れるため、裾花(すそばな)川の取り入れ口につくる仮堤防のことである。八幡山王堰にはこのほか、長沼組合(五ヵ村)と栗田組合(四ヵ村)があり、いずれも旧天領である。
このほか、六ヶ郷用水(西和田・東和田・北尾張部・石渡・南堀・北堀、管理者は西和田区長)と南八幡用水組合(北尾張部・北長池など八ヵ村、管理者は北長池)があった。