六ヶ郷用水

556 ~ 558

裾花川から引水する八幡堰は信濃毎日新聞社の社屋裏で南北両堰に分かれ、六ヶ郷用水は守田廼(もりたの)神社裏で北八幡堰と分かれる。現在はヒューム管で分けている。昔あった取り入れ口より四〇〇メートルほど上に移して暗渠(あんきょ)で引き、昭和二十四年にできた。堰元の両和田村がまず取り、少しくだって北尾張部が引き、残りを石渡・南堀・北堀の三ヵ村が引く。三ヵ村では石渡が昼に使い、両堀は一日おき、夜に使う。北堀では一晩おき、夜にしか水が来ないのだから、その夜は男たちが、北尾張部や石渡に水を盗まれないよう分水口に蚊帳をつって「寝番(ねばん)」をする。また、「堰上り」といって、堰筋を歩いて上り、小さな分水口から水を盗まれないようにする。水不足のときは「水寄り」と称して板(はん)を鳴らして大日庵に人を集め、一晩中起きていて、役の手配をするが、多いときは二五人にも達し、成人男子では足りず、女も動員したこともあった。

 文化(ぶんか)三年(一八〇六)には北尾張部村と北堀・南堀・石渡三ヵ村との分水割合につき争い、松代藩道橋奉行の裁決がくだり、同四年には三ヵ村が分け方について申し合わせをした。天保(てんぽう)八年(一八三七)には堰元両和田村が下流へ水をよこさないと四ヵ村が訴え、翌年、藩の指定でようやく和解した。北堀の区有文書は用水に関するものが過半であり、他の朝陽(あさひ)地区旧村々も同様であろう。まず鐘鋳(かない)堰と八幡山王堰とのはげしい争いがあり、つぎに南北両八幡堰の争いがあり、ついで北八幡堰と六ヶ郷用水との争いがある。六ヶ郷のなかでも互いに水争いがあり、最後は隣家との争いになる。このような水争いがようやく解決したのは、善光寺平農業水利改良事業が完成して、犀(さい)川の水を上八幡堰に入れることができるようになった昭和十一年だった。


図2 北八幡川・南八幡川各分水口ならびに犀川導水路略図 (『北長池誌』により作成)