朝陽(あさひ)地区は長野市に合併するころまで、ほとんど純農村だった。明治初年、福田村(北堀(きたぼり)・南堀(みなみぼり)・石渡(いしわた))の主な農産物は米八九八石余(うち長野町へ出荷約四百石)、大麦三二九石(同一三〇石)、小麦二二八石(同一二八石)、大豆四六一石(同一六一石)、木綿五四〇貫(同二四〇貫)などであり、長野町への出荷が半分近くを占め、都市郊外型の農業であったことがわかる。北長池村は米一三〇二石、大豆四〇六石、木綿七〇三貫などだった。作付面積は大正四年(一九一五)と昭和十九年(一九四四)と比べて米・大豆はほとんど変わらず、大麦が減少して小麦は作付面積、生産高など、いずれも三倍以上になっている。反当たり収量も大麦が一石三斗から二石六斗へ、小麦が九斗八升から一石一斗へと大幅に増加している。