土地改良

560 ~ 561

朝陽地区の大部分は古代以来の条里水田であるが、屋島および北長池では、大規模な土地改良、耕地整理がおこなわれた。

 南屋島では、西は大豆島(まめじま)村との境、南から東にかけては堤防で区切られた五三町歩(約五二ヘクタール)余りの地を明治四十年に耕地整理した。幅九間(一六メートル)、長さ一八~二〇間(三三~三六メートル)、一筆の面積一八〇坪~一反歩(六~一〇アール)できちんと区切られている。ただし地形の関係で東西、南北でなく、少しぶれている。大正四年には北屋島集落の西の一七町歩を幅一〇間(一八メートル)、長さ二五間(四五メートル)に耕地整理した。

 南部地区土地改良は、昭和二十四年の裾花川堤防決壊の復旧工事としておこなわれ、昭和三十年、六三町歩(六二ヘクタール)が、一区画一町歩、一筆一反歩ときちんと整理された。伊勢宮跡にその記念碑が建てられている。

 北堀(きたぼり)は用水不足に悩まされていたので、大正五年、地区の西北隅にため池を新設した。直径約九十メートルで、浅川から引水した。この池は昭和四十一年、白樺団地用地として、売却された。