弘化大地震

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弘化(こうか)大地震は弘化四年(一八四七)三月二十四日午後一〇時ごろに起こった大地震と、同年四月十三日、犀(さい)川のせき止めがくずれて起きた大水害との二つの災害をもたらした。

 北堀・南堀・石渡(いしわた)・北尾張部(おわりべ)はかなり強い地震に見舞われた。北堀・南堀・石渡の三村では、半分以上の家が全壊、南堀の長命寺は半壊した。死者は三村で三九人にのぼった。この三村がことに地震が強かった。北尾張部は全壊二戸で比較的被害は少なかった。死者は善光寺町など、他所での死である。

 福島新田(北屋島)は地震の被害は少なかったが、水害は深刻(しんこく)だった。流失一三戸、洪水による半壊三〇戸、残り全戸が床上浸水で、流死人が二人出た。北長池の家屋被害は水害によるものらしい。

 被害者に対する藩からの手当ては、全壊金二分、半壊一分、床上浸水二朱とごくわずかであった。また藩は村内の富裕なもの二三人に御用達金を課し、一六両余りを集め、それをそのまま村へ下付した。

 北長池村へはさまざまな品物が流れてきた。もとの持ち主のわかるものは、それぞれその村の名主を通して、もとの持ち主に返した。福島新田からは仏壇・味噌桶(みそおけ)・肥桶など、たくさんのものが流れてきた。小島村からは文政(ぶんせい)三年(一八二〇)の本田水帳が流れてきた。大豆島(まめじま)からは橋板、新田川合からは稲扱(いねこき)などめずらしいものが流れてきた。また福島新田・松岡新田からはそれぞれ小舟一そうずつが流れてきた。小島は北長池からみると北東で北八幡堰の下流に当たる。北長池の南部を流れる前川(裾花(すそばな)川古川筋)がえぐられて土地が低くなったのだという。


表6 弘化大地震朝陽地区被害