千曲川の氾濫(はんらん)はしばしばだった。明治二十九年(一八九六)八月二日には北屋島前のカスミ堤防が切れて、北屋島は大部分が床上浸入、水田も大被害を受けた。長沼玅笑寺(みょうしょうじ)本堂の柱に刻まれた「千曲川洪水水位置」でも、このときの洪水が寛保(かんぽう)二年(一七四二)の満水についで二番目である。明治三十一年九月七日には南屋島の堤防が決壊、南北屋島、北長池をはじめ、柳原・長沼・古里方面まで一面の湖水になってしまった。
国営による千曲川・信濃川大堤防工事は大正七年(一九一八)に測量が始まり、同九年から工事が始まった。南屋島には前川堰暗渠(あんきょ)(屋島樋門)が設けられ、工事は昭和十六年(一九四一)にようやく完成した。
同四十一年屋島樋門は国営長野平水利事業により、屋島排水機場として二機のポンプを備え、屋島幹線排水路流域九四七ヘクタールの排水を処理できるようになり、屋島地区は湛水の被害を免れるようになった。