朝陽地区では近世後期から大正ころにかけて俳句が大流行した。北長池常恩寺八世大航は、十二観音堂西に「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の芭蕉句碑を建てた。催主は善光寺町の宮沢武曰(ぶえつ)だった(文政七年以前)。北尾張部の尾張神社には、三面の俳額が掲げられている。弘化(こうか)三年(一八四六)のものは、願主は北屋島の福田圭国、南屋島の滝沢希耕であった。圭国は峯村白斎の高弟で、最初に白斎の句が書かれており、つぎの句に「木がらしや額(ひたい)にあてる手の温(ぬく)み 圭国」とある。圭国は弘化四年北屋島の伊勢社にも俳額を奉納している。ともに圭国の筆である。尾張神社拝殿正面の額は明治三十三年(一九〇〇)に奉納されたもので、選者は北尾張部の禾鎮(かちん)(横川照三郎)である。同社大正五年(一九一六)の奉額も禾鎮(当時八二歳)の選である。筆者は同区の横川重作(和風園南笛)で能書家として知られた。北長池の高野駒治(南星舎・関山)は、俳諧師、画家として一〇二歳の長寿を保ち昭和三十六年(一九六一)没した。
山田桜霞(おうか)(源治郎)は北尾張部の人。東陽庵と称し、昭和三十八年、社中によって桜新町創設記念として桜新町公民館に句碑が建てられた。 曙(あけぼの)や天まで匂う桜花