生け花・謡曲・和算

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文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)(一八〇四~三〇)のころ、江戸から遠州流の生け花がさかんに信濃へ入ってきた。石渡(いしわた)の長谷川儀平治は文政のころ、読み書きとともに花を教えた(筆塚)。北尾張部(おわりべ)の山田与兵衛は北尾斎春山と称し、正風(せいふう)遠州流を教えた。

 観世(かんぜ)流謡曲がさかんになったのは明治以後で、北長池の原田耕作衛門は謡曲・絵画・煙火など多趣味の人で、謡曲の弟子が多く、明治十一年、明治天皇の北陸御巡幸のとき、高土手で花火をあげた。その次男広治も謡曲を教え、弟子は六〇人におよんだ。

 北尾張部蓮開庵の格天井(ごうてんじょう)には三枚の和算額が掲げられている。「嘉永(かえい)六年赤沼久車」「当所伝田喜右衛門義定」「安政四年横川儀助政朝」の三枚で、この地区に幕末のころ和算が流行していたことがわかる。