近世から戦後まで各集落に若者組があり、神社の祭礼をはじめ、村の行事の多くを主催した。石渡(いしわた)では嘉永(かえい)二年(一八四九)つぎのような規則を決めた。
①若者仲間は一五歳から三一歳まで。「上若衆」は三二歳から四〇歳まで(南屋島は一五歳から二〇歳まで)。
②正月十五日夜、第一回「明神講」を開いて行司三役を決める。
③若衆寄合の節、酒はいっさい用いず、すべて質素にする(北屋島では世話番引渡しのときは八升、祗園跡ふきのときは一斗など、会合ごとの酒の消費量を決めていた。)。
④明神講のとき、欠席しないこと。やむを得ず欠席するものは、行司へ届け、決定事項につき、あとで文句をいわないこと
⑤祭費用等はなるべく倹約する。ただし割り当てが決まったときは、行司へ早く納めること。
⑥野荒しのものは罰金として銭三貫文、酒一斗を出す。見のがしたものも罰金三貫文、見つけたものへは、右のほか、犯人から三貫文届ける。
このほか、日常生活のこまごましたことまで決められており、年貢などの公的なことのほかは、若者組が事実上村の中心となっていたことがわかる。
南堀村の「若連中」は、文化(ぶんか)六年(一八〇九)五ヵ条の「定」を決めた(県史近世⑦七二三)。全員が名字をつけている。「喧嘩(けんか)口論をしない。若輩はふらちなことをしない。大酒を飲まない」などの箇条のあとへ「もし背いたら、若者連が集まって打擲(ちょうちゃく)し、仲間はずれにしても、文句をいわない」として、血判を押し、以後、代々一七〇人が署名を書き継いで明治にいたっている。
また、北長池では、天保(てんぽう)六年(一八三五)若者四四人が村役人・頭立にあてて八ヵ条の規約を守ることを誓っている。その最後の条は、「婚礼の節、頬(ほお)かむりをし、行列の途中または婚家で悪口・雑言し、戸障子、窓などへ手をかけ」など、不法のことをしないという誓いがあることから、婚礼のとき、いろいろ意地悪や乱暴をすることもあったらしい。
さらに、福島新田(北屋島)の若者は安政(あんせい)五年(一八五八)に規約を定め、そのなかで「願休日は若者が相談して決め、村役人の許可をえて決める。休日には仕事をしない。朝四ッ時(一〇時ごろ)から七ッ時(午後四時ごろ)までのあいだに家業をしたものは過料三貫文を出させる」と決めている。
北長池若者衆は、安政二年に有信社という組織をつくった。社中は一五歳から三五歳まで、うち三一歳以上は兄有信と称し、月番は当有信でつとめる。寄合などは月番から回章で知らせる。この有信社は昭和二十一年まで加入者があった。また、北長池池生神社氏子は明治五年、旧称御社子大明神を池生神社と改称したのを機に至誠社を結成した。一五歳から四〇歳(明治三十八年から三五歳)で組織し、ほぼ若者組と重なる。ただし正員は一戸一人とする。この組織は昭和三十三年までつづいたが、その後解散、同四十四年神楽保存会が結成された。