耕作農民の地位を安定させ、農業生産力の維持増進をはかる方針は戦前から進められ、昭和十三年(一九三八)四月には農地調整法が施行された。
戦後、この法律を一部改正して昭和二十年十二月、第一次農地改革が施行されたが、不十分だったので、連合国総司令部の意向を受けて二十一年十月に第二次農地調整法が施行された。朝陽地区では専任書記二人を置き、十二月に農地委員会委員が選出されて委員会が成立、小作地の買収、売り渡しが進み、二十三年末でほとんど終了した。
朝陽(あさひ)地区の耕地は昭和二十年十一月には自作地三〇四町歩(六八パーセント)、小作地一四四町歩(三二パーセント)、計四四八町歩(四四四ヘクタール)、だった。それが、同二十五年八月現在四〇九町歩(九一パーセント)、三九町歩(九パーセント)になった。改革前は自作が二〇八戸と全農家六一二戸中三四パーセントにすぎなかったが、改革後は四〇六戸と六四パーセントに増え、自作兼小作を含めると九一パーセントとなり、専業農家には純小作人はいなくなった。農地を買収された地主には三町歩以上五町歩未満が三戸あるだけで、もともと朝陽地区には大地主はいなかったが、改革の結果、平等化が進み、社会の進歩に大いに役立った。