市制・町村制の施行

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明治二十二年、市・町村制施行による県の合併案は、檀田(まゆみだ)・稲田(いなだ)・徳間(とくま)・東条(ひがしじょう)・上野(うわの)・田子(たこ)・吉(よし)の七ヵ村であったが、この案に檀田・稲田・徳間の三ヵ村は全戸連名の願書を提出して三ヵ村の分離合併を請願し、さらに代表は上京し内務省に陳情した。これは地価金の南北の差による課税面の不公平や連合戸長時代に建築された東条学校の位置に対する不満にもとづいていた(表1)。


表1 北部九郡異議調べ

 各地から出された反対意見の多いなかで、県は明治二十二年三月九日付け県令第一八号をもって、四月一日からの町村制施行を管内に公布した。しかし、その後も南部旧三ヵ村は分村運動をつづけたが、県から「願ノ趣、聞届ケ難シ」と要望は却下され、七ヵ村の合併をもってここに若槻村が誕生した。