稲田の分村運動

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旧三ヵ村(檀田・稲田・徳間)の分村運動が不調に終わると、今度は大字稲田が若槻村から分村して隣接の吉田村へ合併する運動を起こした。明治二十五年二月、稲田の総代一八人が県へ提出した願書によれば、分村理由を若槻村も認め、受け入れの吉田村会でも「稲田ノ合併、差支エナシ」と合意したことが記され、村長金子慶治郎の署名も得ている。これには、「両地区の地理・水利・人情皆同一にして、この合併実現は住民の積年の願いであり、児童の通学は吉田の学校へは距離も短く安全であるが、東条の学校へは道中三ヵ所の坂道あり、車馬往来頻多にして危険を伴い、とくに冬季積雪の折には滑落転覆して傷害を受ける者多くある」と今日の交通事情と同じ心遣いをしている。


写真1 長野市へ合併の日(昭和29年4月1日 稲田区にて)

 しかし、この分村願いも「申立テニ異ナル事アリ、願ノ趣、聞届ケ難シ」と差し戻され、分離合併計画は実現しなかった。