若槻の名の初見は、『吾妻鏡』文治(ぶんじ)二年(一一八六)三月の「乃貢未済(のうぐみさい)庄々注文」にある。「証菩堤(ぼだい)院領 若月(槻)庄」とあり、平安末期には若槻荘が成立していたことが明らかである。のちに鎌倉幕府御家人として、源頼隆がこの地に赴任して若槻姓を名乗り、現在の若槻・浅川地区の大半を領して以来、約二世紀半にわたり若槻氏は繁栄した。中世の長い歴史のなかに培われた若槻の名はこの地にもっともふさわしく、明治二十二年(一八八九)三月の町村制施行県令第一八号公布のさい、「若槻村卜称ス」と決定された。