明治から昭和十五年(一九四〇)ごろまでの戸口には大きな変化はみられないが、太平洋戦争末期ごろから都市からの疎開による人口増加が始まった。戦後は昭和二十五年稲田に小規模な県の分譲団地が造成されて以後、急速に市街化が進んだ。わけても、同三十九年から企業局により企画され、県下一の規模といわれた三一万平方メートル(九万余坪)の若槻団地の完成をみてから、上野農住・東徳間などの住宅団地が何ヵ所もでき、戸口は一挙に激増した。さらに、同五十年代に入ると稲田・徳間の区画整理による農地の宅地化が進み、平成七年(一九九五)度の戸数六千余戸、人口一万八千余人で、戸数は合併時の六倍、人口も三倍となり、市内でも有数の増加率となっている(表2)。