平安時代から鎌倉時代にかけて全国的に荘園が発展するなかで、若槻荘が形成されていくが、その初見は文治(ぶんじ)二年二年(一一八六)で、『吾妻鏡』に「証菩提(ぼだい)院領 若月(槻)庄」としてみえる。のち京都に勧請(かんじょう)された「新熊野(いまくまの)領」となったが、実権は皇室所管の荘園で、その地域についてはだいたい今の若槻であったことが天正(てんしょう)七年(一五七九)の「諏訪(すわ)下社造営帳」によってわかる。「玉籬(たまがき)三間 若槻庄」に東条・西条・押田があり、「外籬(そとがき)廿間 若槻庄之内」として、真弓田(檀田)・山田(稲田)・上下徳問・稲住上下(稲田)・河原田(東条)・田子の一〇ヵ郷があり、合わせて七貫百文を諏訪下社造営費として負担した。
また、太田荘は五摂家近衛家の荘園で、その地域は市内長沼から豊野町・三水(さみず)村・牟礼(むれ)村におよぶ広大なもので、若槻では吉がこれに含まれていた。地頭職として、島津氏や北条氏がこれを所領した。嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)の「諏訪上社頭役結番(けちばん)状」には、「太田庄内、大倉、石村、吉村」とあり、鎌倉・室町時代から戦国初期にかけての若槻地区は田子から南部の地域が若槻荘で、吉のみが太田荘であったことが判明する。