髻山城跡

587 ~ 587

若槻西条 長野盆地北西縁に位置する山城で、北国街道を押さえる絶好の要地にある。頂上の本郭跡は東西四五メートル、南北二六メートル、周囲に高さ一メートル内外の土塁を巡らし、「抜け穴」と称する凹地がある。この山城は戦国時代、上杉謙信によって築造され、謙信馬隠し、宇佐見沢の地名も残されているが、永禄(えいろく)四年(一五六一)の川中島決戦後は武田方の勢力が北信濃を制し、髻山城も信玄によって修築完備された。同七年八月、飯山城に入った謙信に対して、武田軍は髻山に兵をあげ、旗を立てて上杉軍に備えた(『直江文書』)。現在の城跡は甲斐府中の武田本城である石水寺城に形状を似せて造られ、眺望もよく「のろし山」としても利用された。