二 寺院

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 円龍寺 曹洞宗 東条 ①本尊 大日如来(だいにちにょらい) ②山号 護国山 ③由緒 本寺はもと三登(みと)山のふもと、上野(うわの)字塔ノ尾にあり、昭和二十八年(一九五三)現在の地に移った。古くは真言宗であったことは、本尊が大日如来であることからしても推測される。享保(きょうほう)十六年(一七三一)までは現上水内(かみみのち)郡中条村地京原にあり、曹洞宗臥雲院(がうんいん)の末寺で、当時は渕龍(えんりゅう)寺と呼ばれていたが、この年、更級郡中牧村(信州新町)清水寺に末寺を依頼したが受け入れられず、清水寺の仲立ちで当地へ移転した。弘化(こうか)四年(一八四七)の大地震で損壊し一時衰微したが、二〇世丹田和尚(上野出身)によって再興された。本尊の木造大日如来座像は室町時代初期ごろの制作とされ、長野市指定文化財である。

 国胎寺(こくたいじ) 曹洞宗 上野 ①本尊 釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい) ②山号 三登山 ③由緒 この寺ははじめ真言宗金胎(こんたい)寺と称したという。のち天正(てんしょう)年間(一五七三~九二)、曹洞宗の上州最興寺天倫和尚の法弟全春が寺を再興して三登山国胎寺と改称し、中興開基となって今の釈迦牟尼仏を本尊とした。また、全春は上松村昌禅寺を再興して師天倫を推して開山とし、自分は二世となった。以来、昌禅寺を本寺として、当山歴代住職から昌禅寺住職に直った人は七人におよんでいる。当寺三世の僧関鯢(かんげい)(昌禅寺七世)のとき、北国街道に面して堂宇を建立したのが現在の国胎寺である。

 地蔵院 曹洞宗 田子 ①本尊 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)・観世音菩薩(かんぜおんぼさつ) ②山号 哀愍(あいみん)山 ③由緒 上松昌禅寺の末派であり、寛永(かんえい)九年(一六三二)関鯢(かんげい)(昌禅寺七世・国胎寺三世)により創建された。寺伝には、承応(じょうおう)年間(一六五二~五五)二世のとき夢のお告げにより古池に輝く仏あり、村民がこれを引き上げたところ聖観音があらわれ、霊験きわめてあらたかであり、今の奥院観音がこの御仏(みほとけ)であるという。文政(ぶんせい)五年(一八二二)には念願の百番観音がそろい、成就の大供養が執りおこなわれた。当院の裏の観音山の頂上には平安時代後期の木造観音菩薩が安置されており、長野市文化財に指定されている。

 山千寺 吉 ①本尊 観世音菩薩 ③由緒 天文(てんぶん)十二年(一五四三)僧円明坊(えんみょうぼう)融弘の開基創建により、天台宗戸隠山勧修院(かんじゅいん)末派となり、明治維新後、善光寺大勧進(だいかんじん)末となったが、明治六年廃寺、その後は山千寺集落五戸の管理となる。また、天正年間に武田信玄の家臣丸子弥平太が本尊を奉じ、本堂を造営して付近を開拓したという。本尊は二九・七センチメートルの白鳳時代の銅造観音立像で飛鳥仏の面影を残しており、重要文化財に指定されている。

 正覚寺跡・東泉寺跡・正法寺跡・広円寺跡

四ヵ寺とも若槻氏発祥(鎌倉時代)以来の名刹(めいさつ)である。開基創建も同氏一族によるものであり、それぞれの寺跡は今に残されている。正覚寺跡は蚊里田裏山の字小平にあり、土塁を築き城郭にも利用できる中世の寺院跡として確認できる。越後長岡と長沼に正覚寺が現存し、ともに若槻姓を名乗り、後町の正法寺(現本願寺別院)は正覚寺塔中として建立され、それぞれ寺伝には「当郡東条より移る」と伝えている。東泉寺跡は宇寺山にあり、創建は若槻氏出身の僧源了で慶長(けいちょう)年間(一五九六~一六一五)、村落とともに北国街道沿い(現東条会館)に移ったが昭和初年廃寺される。広円寺跡は田子字北村にあり、現在須坂市小河原にある広円寺は田子(たご)姓を名乗り、寺伝に「源義家末孫・多胡某開基す。天正十三年(一五八五)乙酉(きのととり)、故あって高井郡小河原村に移転す」とある。