若槻は松代・飯山の二藩領と幕府直轄地(天領)に分割され、それぞれの藩主や代官によって領知された。檀田(まゆみだ)・上下稲積(いなづみ)・北山田(やまだ)・北徳間(とくま)・北東条(ひがしじょう)・北上野(うわの)の六ヵ村は松代領、田子・吉は飯山領、上野村(現田中)・徳間稲倉組(徳間・稲田の一部)は御料所(天領)であった。村名に「北」が付けられるのは、松代領内に同村名があり、松代行政区分の「川北通」に位置しているためである。御料所は正保(しょうほう)四年(一六四七)幕府の長沼支藩五〇〇〇石没収により、同藩の上野村・西条村が幕府領に編入された。徳間稲倉組は西条村の飛び地であり、西条村徳間稲倉組といわれたが、ほとんど一村の形式をとっていた。
松代藩では、地方知行(じかたちぎょう)として藩士(地頭)に領地を与え、幕末まで存続した村もあったが、宿場であった稲積・徳間・東条は伝馬(てんま)役と地頭諸役の両立はできないと願いたて、宝永(ほうえい)六年(一七〇九)地頭知行はなくなった。他の村も安永(あんえい)年間(一七七二~八一)には蔵入れ地(藩直轄地)のみとなった。若槻各村の地方知行当時の石高は表のとおりである(表3)。
檀田・北徳間の両村は、九〇パーセント以上が知行地であり、地区全体では六五パーセントに達する。稲積村に少ないのは、江戸時代初期から伝馬宿を請け負っていた村のためである。
領主は村の行政を、名主(飯山藩は庄屋)・組頭・長百姓の村三役を置き五人組の制度を設けておこなわせ、年貢諸役の任務・犯罪の防止をはじめすべてに相互扶助の義務を負わせた。名主は、本百姓のうちでもとくに大前といわれる一部の階層の年番制が多くみられるが、稲積村では天明の飢饉(ききん)につづく村の困窮経済の立て直しのため、小前百姓から名主善六らの有能人を村役人に選んでいる。
また、名主には高札(こうさつ)を保護する役目もある。法度(はっと)・掟書(おきてがき)などを木板に書き、人通りの多い場所に高札場を設けてかかげ、お触れの内容を周知させるものであるが、若槻地区では稲積・北上野・北東条・北徳間の四ヵ村にあった。