新町宿のなりたち

597 ~ 598

慶長(けいちょう)十六年(一六一一)九月、松城(松代)領内の北国街道宿駅に指定された村の問屋たちは、稲荷山城において幕府代官頭の大久保長安から宿場の基本を示した「伝馬宿書出(かきだし)」(宿場証文)を下付され、正式な宿駅となった。稲積村では問屋成田佐左衛門がこれを受けて、三六軒の稲積村が新町宿として成立した。この「書出」は宿場の最重要文書として、江戸中期から問屋をつとめた吉沢家に伝わり現存している。「書出」で諸役免除や私用伝馬を禁じても無賃の公用伝馬が多く、わずか数年で稲積村は疲弊して潰(つぶ)れ百姓が十数戸におよんだ。このため、元和(げんな)三年(一六一七)稲積村に徳間・東条の二村を合わせて一駅とし、上一五日は稲積村、下一五日は徳間・東条の二村が伝馬の継ぎ立てをおこなった。さらに、安永三年改正されて、上一〇日は稲積村、中一〇日は徳間村、下一〇日は東条村がつとめ、新町宿は三町の駅といわれるようになった。宿名の由来は、最初の宿場は上駒沢(かみこまざわ)字新町(あらまち)(古里)に置かれ、隣接の徳間三丁町(さんちょうまち)も宿場に指定されており、宿場名は地名から新町宿と称されていた。慶長九年にこの街道に一里塚も築造されたが、道幅が狭かったため、数年後には新しく西方一キロメートルに北国街道が開道されて宿場も稲積村(稲田)に移されたが、宿名はそのまま新町宿として引き継がれた。