宿場のようす

598 ~ 598

新町宿では、駅伝馬二五匹・人夫二五人と公定されていたが、常備の馬一八匹・人足二一人でつとめた。大名行列など常備人馬で不足の場合には、近郷の村三四ヵ村が助郷として定められている。稲積村は軒役三六軒で伝馬費用を負担しており、一八軒の合家(あいや)(別家)は伝馬の義務がなく、宿手当はもらっていることでたびたび争いとなり、天明(てんめい)元年(一七八一)、年に馬二匹分として籾(もみ)九俵を出すことで和解している。

 問屋は宿場の中心であり、年寄(としより)・馬指(うまざし)の役人を置いて費用は村入用で負担した。稲積・吉沢家、徳間・八木家、東条・松田家が問屋をつとめており、とくに吉沢家は本陣を兼ねた新町宿の筆頭問屋であった。また、新町宿には脇(わき)本陣は置かれていないが、一般の宿場旅籠(はたご)は数軒あり、現在も屋号で呼ばれている。明治十一年(一八七八)、鶴賀新地に新設された長野遊廓に移った新潟楼はそれまで新町宿で水茶屋を営んでいた。しかし、新町宿は善光寺宿に近いため、北からの旅人は夕刻遅くなっても通過し、朝は善光寺宿の早立ちで泊り客も少なく、宿場としての生業(なりわい)がたたないと、何回も宿場返上の願いを起こしたほどであった。