馬士殺害事件と取極(とりきめ)書

599 ~ 600

元治(げんじ)元年(一八六四)十月十日、風雲急をつげる江戸へ向かう越後高田藩の家臣戸田主馬(しゅめ)らが新町宿に着き、そこから丹波島宿までの伝馬荷物をめぐって、一人の老馬士(五九歳)をその場で無礼打ちにするという事件が起きた。夕暮れどき、酩酊(めいてい)気味であった馬士は、本馬(ほんま)(人と荷物で四〇貫)荷の軽重のことで争い、戸田に切りつけられ、見分書によれば全身一四ヵ所の傷で絶命した。この事件を機に、稲積村の馬士たちは、その業務を自粛する一二ヵ条の取極書を同年十一月問屋と村役人に差し出している。主な内容は次のとおりである。

① 御朱印・御証文をはじめ、諸家様の荷物は大切に継ぎ立てする。

② 御定め賃銭のほか、酒代などはねだらない。ただし、夜中や雨天で思し召しをもって下さるものは格別である。

③ 馬の鼻綱は定法どおり三尺以内で引く。付(つけたり)、道中脇(わき)に干してある農作物などを馬に食わせない。

④ 問屋場の前を頬(ほお)かむりやふところ手で通らない。歩きながら挨拶しない。

⑤ 御伝馬をつとめるあいだは酒を飲まない。

⑥ 御武家様方へ不礼(ぶれい)なことはしない。(ほか略)

 この取極めに署名した二〇人の馬士のうち、判をついているのは八人、ほかは爪印である。馬士たちの過半は若者たちであることがわかる。