松代藩では、戊辰(ぼしん)戦争(慶応四年・一八六八)の軍費調達や借財のため、発行した多量の藩札や商法社札(午札(うまさつ))の下落により物価が暴騰し、しかも凶作が重な、期待した新政府への失望も加わり、農民たちは「世直し」「世ならし」を唱えて各地で暴動を起こした。明治三年(一八七〇)十一月二十五日、上山田村で蜂起(ほうき)した一揆はたちまち松代領一帯におよび、その規模は数万人にのぼる大騒動となった。翌二十六日、布野(ふの)の渡し・大豆島(まめじま)の渡しを越えた暴徒の一部は、大豆島・古牧の各地でさらに多人数になり、吉田から善光寺町へと押し出した。大門町をはじめ各町の富裕商人たち七七軒が、打ちこわしや放火・略奪の被害にあった。近郊の大地主たちも目標にされ、若槻では檀田(まゆみだ)村荒木佐右衛門と稲倉村(稲田旧天領)新津幸左衛門が襲われ打ちこわしの被害にあった。