一 用水の開発と保全

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 古くから農民にとって用水の歴史は、きびしい自然との戦いであると同時に水争いの歴史でもあり、旧村には用水をめぐる訴状や和解文書が多く残されている。

 若槻地区の灌漑(かんがい)用水は地形的にみて、坂上・坂下地区に分けられ、坂上地区は三登(みと)山山麓(さんろく)に十余ヵ所の貯水池を築いて、それぞれの水利組合によって管理運営されているが、湧水(ゆうすい)量も少なく干ばつ時には水不足に悩まされることも多くある。昭和十六年(一九四一)七月の長沼地震で上野(うわの)大池の水源地が陥没して断水になり、約五町歩(約五ヘクタール)が収穫皆無となったが、翌年長さ六〇メートルの隧道(ずいどう)(トンネル)を掘り直して復興した。

 田子池は、若槻地区では最大の面積五・四ヘクタールの池であり、田子・吉・三才(古里)の三地籍に灌漑面積四〇町歩(約四〇ヘクタール)の用水として利用され、田子池水利組合によって管理されている。また、昭和初期から同三十年ごろまでは冬季スケート場として有名になり、毎年大会も開かれ盛況であった。

 坂下地区は、浅川上流の飯綱山麓のため池を水源とする旧一〇ヵ村(上松・上宇木・下宇木・押鐘・吉田・東条・徳間・檀田(まゆみだ)・山田・稲積)水利組合が主である。古来から存在する大座法師池をはじめ、永禄(えいろく)年間(一五五八~七〇)には海津城将高坂弾正の家臣小林宇右衛門の指揮により、大池・丸池が築造され、その後、論電(ろんでん)ヶ谷池・上下蓑ヶ谷池と六つのため池が築かれた。往時の灌漑面積は三六〇町歩(約三五七ヘクタール)あり、下流一五ヵ条の堰(せぎ)に分けて利用されたが、干損の被害はあとを絶たなかった。これらを根本的に解消するため、昭和十七年から同二十一年にかけて猫又池が構築され貯水量は増大したが、干ばつになれば昼夜を分かたず監視する「水番」の苦労はつづいた。これらの池は現在、浅河原土地改良区が管理している。


写真8 浅河原水利組合の守護弁財天

 分水法についても、昭和十三年、従来の浅川本流からの直接揚水法を改め、サイフォンを利用した円筒型配分場を天竜川まで視察に行って取り入れ設置したが、一回の豪雨で土石流に埋まり施設は壊滅し、無謀な設計が非難された。現在は分水貯水池を設けて、協定の分水をし、下流の堰分はさらに一度浅川に落下させて、それぞれの分水口で分けている。

 しかし、昭和四十年代ごろからの近郊の住宅開発や、減反政策により水田面積は減少の一途をたどり、浅川改良区の場合、組合員四六〇人、面積七五ヘクタールと人数で約半数、面積は約五分の一に激減して現在にいたっている(平成六年現在)。このため、かつて災害の起きた論電ヶ谷池は、昭和五十八年に長野市へ売却され、現在は運動場となり、また大座法師池は市観光課へ貸与されて、スポーツや観光に利用されている。

 旧稲積村(稲田)の一部は鐘鋳(かない)川用水を利用している。鐘鋳川は裾花(すそばな)川から揚水して市街地を横断し、一〇八ヵ所の分水口をもって吉田地区から浅川の下を隧道(ずいどう)で通して稲田へ灌漑する。同用水の最流末であり、現在は善光寺平土地改良区に属して潤沢に取水されているが、大正十三年(一九二四)の大干ばつのときは大半が収穫皆無の大被害を受けた。