石高の変遷

603 ~ 603

慶長(けいちょう)五年(一六〇〇)松城(松代)に入封(にゅうほう)した森右近忠政は同五年から七年にかけて、領内の総検地を実施した。これが右近検地といわれるもので、稲積村にこの検地帳が残されており、若槻地区ではもっとも古い検地帳である。のち、松代藩では総検地はおこなわれなかったが、寛文(かんぶん)六年(一六六六)に差出検地として、改めて検地帳を提出させた(寛文水帳)。その後は、願いによって村ごとの検地が実施され、若槻地区では安永(あんえい)年間(一七七二~八一)から寛政(かんせい)元年(一七八九)にかけて、上野(うわの)・東条・徳間・稲積で実施されたが、右近検地より増加したのは、各村が新田開発に力を入れたためである。

 なお、稲積村の慶長七年の検地帳には、耕作人名に「無主」「主なし」などと記入され、また肩書に「永不作」と書かれたものが数多くみられる。戦国時代からこの時期ごろまで、いかにこの地方が混乱していたかを物語っている。以後の検地帳にはこのような記載は一件もない。

 江戸時代における、石高の変遷は表4のとおりである。


写真9 慶長7年(1602)右近検地帳(稲積村)


表4 石高の変遷