養蚕の興亡

605 ~ 605

明治初期の『町村誌』にはわずかながら稲田・東条の産物のなかに糸・繭の生産がみられるが、同中期には養蚕が急速に発展し、農家の現金収入の中心をなしてきた。若槻でも大正十年(一九二一)には農家戸数六三〇戸のうち、四四〇戸が蚕を飼育して収繭量一万一〇〇〇貫(四一・三トン)、金額にして九万余円に達した。

 県も同十一年には蚕業試験所を長野市に設置、支場を松本・上田に設けて養蚕奨励に力を入れた。村の統計を見ると昭和六年(一九三一)には収繭量二万二〇〇〇貫と大正十年の二倍の量となったが、収入は六万一〇〇〇円と激減した。これは同四年の世界恐慌の影響で、アメリカへの生糸輸出は絶望的となり、一貫目一二円もした繭価格が二円以下に暴落して、農家経済はどん底の苦境にたたされた。不況とはいえ、養蚕はその後もつづけられて農家経営の中心であったが、戦後はりんご栽培が急増してこれにかわり、若槻でも昭和四十年にはその姿を消している。