古来から若槻には重要な街道が南北に通じていた。稲田の一里塚から吉(よし)長峰に通じる古道が、平安時代に造られた東山道支道の道筋と推定されている。多古(たこ)・布辺(ぬのへ)の駅(うまや)を経て越後国府へ通じたが、この道は信州から越後へ通じる重要な街道であり、鎌倉時代には善光寺参籠(さんろう)の一遍(いっぺん)や親鸞(しんらん)も通行した。建暦(けんりゃく)二年(一二一二)比叡山の高僧が稲積の里を詠(よ)んだ古歌は今に伝えられている。
戦国時代には甲越両軍の軍用道路としても使われ、江戸時代初期の慶長(けいちょう)十六年(一六一一)新道(あらまち)が開発され、新町宿が移動になるまでは北国街道として利用された。同九年、江戸を起点に主要街道に一里塚が築造されたが、稲積の一里塚もそのとき造られたものである。その後、街道が移されわずか数年でその使命を終えたが、築造当時の姿をほぼ完全に残し、街道の移り変わりを物語る貴重な史跡となっている。
徳川幕府は財源として佐渡金山の開発に力を注ぎ、江戸への輸送路として北国街道の改修を急いだ。道幅二間(約四メートル)に広げ、宿場を整えて伝馬制を確立した。とくに吉田から吉までは道筋を変えて開いたのが今の北国街道である。若槻では、檀田(まゆみだ)を除いて全部の村々が逐次、街道沿いに移って現在のような村落の形態をなした。稲積村は全戸が移るのに約六〇年を要したといわれている。
そして、平成六年(一九九四)には道幅一六メートルの県道長野荒瀬原線がバイパスとして地区を南北に貫通し、大型店も多く進出して新商業圈の中心となり、従来の農村風景は一変した。