浅間大焼けと天明の飢饉(ききん)

607 ~ 607

浅間山は天明(てんめい)三年(一七八三)四月から噴火しはじめ、七月六日から八日の大爆発で、信州では軽井沢、上州側では八七ヵ村もの村々が壊滅的な被害を受けた。その降灰は関東はもとより遠く江戸・奥州・越中・佐渡まで降り注いだが、北信には降らず、これも善光寺如来や戸隠権現のご利益のあらわれと人々はうわさした。しかし、夏中雨天がつづき、秋には毎日霜がおりて寒く、稲作をはじめ諸作大不作となり、松代藩の年貢上納相場は一〇両につき籾(もみ)二〇俵となり、白米も一升二〇〇文と平常の二倍以上に高騰し、人々は早春の山野に出て草木の根や芽を摘んで食糧とした。

 凶作による年貢未進は、天明五年に稲積村では元利合わせて一二四両となり、これを三〇年賦としたが、大前百姓を含めて一六人もの潰(つぶ)れ百姓が出て、拝借金など借金は六〇〇両にもおよんだ。宿場のため、奉公人などとして他出もできず、宿場手当ての増額を再三にわたって嘆願したがこれも実現されなかった。