弘化(こうか)四年(一八四七)三月の善光寺地震により、若槻では吉村が最大の被害を受けた。村の中央を流れる隈取川上流で崩壊、用水池を決壊して土石流となった。民家五五戸が埋まり、一五三人が犠牲となった。耕地も五割が土砂に埋まり、一四年後の文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)いまだ復旧が終わらず、御林人足の減員を飯山藩に願っている。
ほかに上野(うわの)村の神官若槻阿波守(あわのかみ)の記録がある。上野が潰(つぶ)れ家一三軒、半潰れ三〇軒、東条が潰れ家五軒、三人死亡、田中が潰れ家五軒、一人死亡、田子が潰れ家二〇軒、八人死亡。檀田(まゆみだ)・稲田・徳間についての記述はないが、これらの村でも神社の本殿・拝殿が潰れて寺社奉行へ報告しているので、村内にも大きな被害が出たのであろう。ほかに浅川の満水(飯綱原池の決壊)により、檀田・稲積・吉田では家も流され耕地が流失した。吉田村天周院では当夜授戒会(じゅかいえ)があり大勢が参籠(さんろう)中、本堂が倒壊して五、六十人が圧死したと記録されている。死者を出した壇家のなかには、いまも寺の授戒には参加してはいけないと戒める家もある。松代藩では、全壊へ金二分、半壊ヘ一分の見舞い金を出し、上野村では金一四両を受け取っている(『上野昔のはなし』)。