論電ヶ谷池の決壊

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昭和十四年(一九三九)四月十五日夜八時半ごろ、雪解け水の増水によって飯綱山麓(さんろく)の論電ヶ谷池が決壊、浅川・若槻・吉田の浅川沿岸部に、死者一九人、流失家屋九戸(うち住家四)、浸水八三戸、約二十町歩(約二十ヘクタール)の流域の田畑が土砂に埋まる被害がでた。

 流失家屋のうち、四戸では夕食後の一家団らんのとき、突然の洪水で家屋もろとも流されて流死した。檀田(まゆみだ)の中野家もそのうちの一戸で四人が亡くなり、浅川警防団員の一人が警戒中倒れた高圧線に触れて感電死する事故も起きた。稲田では天井川の眼鏡橋からあふれた水が落下し信越本線が流されて、列車も不通になる大被害となった。