一 寺子屋と師匠

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 近世庶民の教育は寺子屋でなされ、農民であってもおおかたの男子は読み書きができ、領主からの触れ書きや回し状が理解できた。まして名主や村役人は、年貢の割り当て、村入用の金銭などかなり高度の計算も必要であり、これらの実用的な知識の基礎は寺子屋で学んだ。七、八歳で入門して読み書きを習い、一〇歳ぐらいになればそろばんにも習熟した。若槻地区でも各村に数人の師匠がおり、明治初年までに三二人を数える。

 さらに、青年期には実用から一歩進んだ漢学や和算を修学するものも多くあり、若槻では「補仁(ほにん)塾」を開いた佐久間象山門下の儒者花岡馥斎(ふくさい)が名高い。和算塾を開いた徳間の藤沢松助は、三才村田原小野右衛門について宅間流を学んだが、門弟には明治中期まで私塾で和算を教えた高沢八十吉・宮下賢治がいる。

 古い時代の師匠として井佐五兵衛・古岩井家円(上野(うわの))・成田善兵衛(稲田)らがおり、年代は正徳(しょうとく)~寛政(かんせい)年間(一七一一~一八〇一)である。このころは寺子屋の数も少なく、成田善兵衛の筆塚には地元の稲積村はじめ吉田・下越(太田)・東和田など九ヵ村の村名が刻まれ、かなり遠方からの弟子入りがあったことがわかる。寺子屋師匠の多くは本業の余暇をもって教え、その職業をみると農民一九人・僧侶一一人・神官四人などで、寺院師弟や父子相伝の師匠も多い。山田村(稲田)の金子美称吉は、家業は農家であったが寺子屋に専念し、「寺子屋教授のかたわら、俳諧を好み、軍談・音曲を能くし衆人これに耳を傾け、その門人数百人に及ぶ」と肖像画に記されている。


写真11 寺子屋師匠金子美称吉の肖像(金子滋所蔵)