昭和二十年(一九四五)八月十三日、長野地方も米軍艦載機の空襲を受けた。若槻上野(うわの)の国立傷痍(しょうい)軍人長野療養所も爆撃され、職員・患者ら五人が死亡し病院施設の一部が破壊された。二日後、十五日正午に「終戦の詔書」が放送されて四年におよんだ太平洋戦争は終わった。
同年十一月、進駐軍の軍政部が長野にも置かれ、その占領政策によるさまざまな指令は地方自治にもおよんだ。翌二十一年公職追放により、戦時中の村長ら数人(大政翼賛会・軍人分会など)は、これに該当して同二十六年の解除まで公職につけなかった。
同二十一年には農地改革に関する指令も出て、自作農創設法により不在地主の全農地と農業貸家、在村地主も六反歩以上の小作地、自作地主も一町八反歩以上で小作地があればすべて耕作者に売り渡された。
若槻では、同二十五年までに一五七町歩が買収されて、この面積は全農地の三二パーセントとなり近隣村ではもっとも多い。