農業の変遷と商工業の発展

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戦後の農業の変遷は、図のグラフを見ると一目瞭然である。作付け統制令によって戦時中、新植を禁止されたりんご栽培が急速に増えた理由は、米麦の主食が統制されるなかで、りんごは統制の外にあって高価で取り引きされたためであり、また、養蚕の不況がそれに拍車をかけた。昭和二十八年(一九五三)、市合併時の若槻のりんご栽培面積は五八ヘクタールになり、さらに、一二年後の四十年には一三〇ヘクタールに達した。収入面でも米を上回り、地区の基幹産業となった。しかし、そのころの主要品種であった紅玉・国光が値下がりして、りんご栽培にもかげりがみえたが、新品種ふじが育成され、再び栽培意欲が活発となった。同五十年代以降は栽培者の老齢化や宅地開発によって、面積・収量ともに減少に転じている。


図1 作物別面積の変わり方(『長野市統計書』による)

 稲作は、長い間の人力労働から解放され、機械力や農薬の普及によってその生産性は向上したが、移入食料の増加や食生活の変化によって米の生産過剰がつづき、昭和四十五年より減反政策がとられて平成二年(一九九〇)の稲作面積は五二ヘクタールと昭和二十八年の四分の一に減じている。

 農地面積も平成二年には二二六ヘクタールと昭和二十八年の半分に減じて、農家率も七四パーセントから一〇パーセントに下がった。農家戸数五〇八戸のうち兼業農家が四四五戸(九〇パーセント)、専業農家はわずかに五三戸となり、地区は近郊住宅地域に変わっている。

 商工業も住宅の増加とともに急速に発展した。戦前は商店数がわずか一四店にすぎなかった純農村のこの地区も、若槻団地をはじめ多くの団地が造成されて県下でも有数の新興住宅地帯となった。それにともない商店数は平成三年には一三〇店へと増加した。その後、若槻大通り、北部幹線の開通によって、大型店を主体とする店舗数は二〇〇店を超え、一大商業圏の中心となった。平成八年以降さらに北部幹線は檀田(まゆみだ)地区へ延長されて、同地区の発展も近い将来である。住宅増加とともに金融機関の進出もあいつぎ、現在、支店数は三ヵ所となっている。

 工業は、昭和三十三年、名古屋の矢島工業が市の誘致によって、上野に七〇〇〇坪の長野工場を建設して、電子機器・通信機の生産をおこなっている。ほかに工業生産ほかの卸売業の事業所は平成三年現在、一五ヵ所となっている。