三 村名「長沼」の由来

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 明治二十二年(一八八九)、長沼大町(おおまち)・長沼穂保町(ほやすまち)・長沼津野村(つのむら)・赤沼村(あかぬまむら)が合併した村名である「長沼」は、千曲川の流路にできた沼の形によると伝えられる。村名「長沼」の初見は、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)三月の諏訪上社の頭役などを定めた鎌倉幕府下知状案で「黒河・福王寺・長治(沼)・下浅野郷豊後左京進入道(島津宗久)跡」とある。当地は島津氏の知行地で、諏訪社上社五月会の十番の頭役を命じられている(守矢文書)。明治二十二年合併の折に、長沼の長と、赤沼の沼を一字ずつとるということで「長沼村」に決まった。

 長沼には中世から近世初めに長沼城が存在していたことも、村名「長沼」を称するにあたって、影響を与えたことであろう。長沼村は長沼城の城下町であったので、村の下に上町・内町・六地蔵町・栗田町などと町をつけて呼んでいたが、廃藩置県後は内町村・栗田町村などのように、町の下に村をつけて呼ぶようになった。