長沼地区は現在の千曲川堤防が完成した昭和初期までは、三、四年に一回の割合で洪水に見舞われている。地区の人びとは水の恩恵と水の災害を受けながら、水を治め、産業の振興に取り組んできている。長沼地区の人口が一番多かった時期は第二次世界大戦後、昭和二十年代の一〇年間にみられる三千二百人台である。これは、復員や疎開人口による増加であり、県下共通の傾向である。同四十年代の一〇年間には、明治末期以下に減り、長野市街周辺平坦(へいたん)地域のなかでは唯一の人口減少地域となっている。昭和四十三年、穂保・大町に工場が進出し、同四十六、七年から赤沼ニュータウン・大町に宅地が造成されたりして、同五十五年以降の戸数はやや増えてきている。だが、人口は微増程度にとどまっている。平成には三千人台を回復したものの、積極的な増加はみられない。人口増につながるような工場誘致や住宅造りはこれからである。