太田荘

627 ~ 628

平安時代の後期に、太田郷の地に近衛家領の荘園として太田荘が成立した。荘の範囲は、現在の長野市長沼・小島・吉(よし)、豊野町、牟礼村・三水村の一部、豊田村上今井などであった。太田郷北部は同じ近衛家領芋河(いもがわ)荘となった。鎌倉時代にはいると、承久(じょうきゅう)三年(一二二一)島津忠久が太田荘地頭になった。忠久はもともと近衛家の家来で、妻は比企能員(ひきよしかず)の妹だった。能員は源頼朝の乳兄弟で頼朝一家と深いつながりがあった。島津氏が地頭になったのは神代(かじろ)・津野・小島・石村南の四郷たった。島津氏の本流は、はじめ三代久経のころまで鎌倉を本拠としており、蒙古(もうこ)襲来以後は薩摩に根拠を置いた。

 信濃に土着した島津氏は、左の系譜の忠久の子忠綱(B)と忠直(A)の系で、(B)系は赤沼郷地頭に、(A)系は長沼郷地頭になった。

 戦国時代、(A)系の昔忠は淡路守・下々斎と称し、上杉謙信に属して勇将として聞こえた。その子左京亮義忠は上杉景勝の移封にしたがって会津長沼城代となり七〇〇〇石を与えられた。子孫も上杉藩重臣として江戸家老などをつとめた。

 (B)系の忠吉は尾張守、泰忠は左京亮・常陸介と称し、川中島の戦のころは、早くから武田信玄に属し、忠吉は永禄六年(一五六三)、逃亡した長沼地下人(じげにん)を城下に呼び集めるよう信玄から命じられている(信濃史料⑫)。

 (B)系はもともと赤沼地頭だったが、のち西尾張部館を根拠地とし、(A)系が上杉方について越後へ逃げてしまっだので、長沼も(B)系の泰忠に与えられた。武田氏が滅亡すると、この家も上杉景勝にしたがった。しかし、終始上杉氏とともに行動した(A)系が重んじられたのは当然で、上杉家が米沢藩一五万石に縮小してからも、(A)系は八〇〇石、(B)系は二五〇石であった。

 長沼藩佐久間氏時代、三代勝友の弟勝興が赤沼三〇〇〇石をあたえられて分家したが、これは、島津氏時代に赤沼を中心とする地が、長沼系と別の島津氏に支配されていたころの伝統をついでいるものであろう。