佐久間氏時代

637 ~ 638

元和(げんな)二年(一六一六)十二月六日、佐久間勝之(かつゆき)(四八歳)が、大坂の陣の戦功により長沼城と領地一万八〇〇〇石とを賜った。それから四代を経て貞享(じょうきょう)五年(元禄元・一六八八)五月十八日、改易、廃城となるまでの七二年間が、長沼城主佐久間氏藩政時代である。

 元和二年十二月六日に与えられた領知目録によると、今の豊野町神代(かじろ)・石村(いしむら)・南郷(みなみごう)、牟礼村室飯(むろい)・平出(ひらいで)・小玉(こだま)・野村上(のむらかみ)、長野市長沼・津野・赤沼・村山・駒沢(こまざわ)・田子(たこ)・三才(さんさい)・金箱(かねばこ)・吉(よし)、須坂市相(あい)ノ島、計一万二五一八石余ほかに近江国(滋賀県)高島郡内で四三八八石余、常陸国(茨城県)筑波郡内で一〇九三石余、計一万八〇〇〇石の領域である。以後の長沼佐久間氏の推移については、いくつかの異説があるが、『寛政重修諸家譜』にしたがうと、勝之の長男勝年は早逝した。二男勝友が寛永(かんえい)十二年(一六三五)に相続した。このとき五〇〇〇石を勝年の子勝盛に分知し、長沼藩は一万三〇〇〇石となる。勝盛は城中の天王宮南側に居館を構えた(長沼知行所)。三代城主勝豊は寛永十九年閏(うるう)九月、父勝友の高一万三〇〇〇石のうちを、三〇〇〇石を弟勝興に分知し、残りの一万石を継いだ。勝興は赤沼に新館を建てた(赤沼知行所)。四代目勝茲(かつちか)(養子)は貞享二年十月家督を継ぎ、高一万石を領有した。貞享五年五月十四日、将軍綱吉の御側(おそば)小姓を仰せ付けられ、病と称して固辞したことが綱吉の怒りにふれ、五月十八日改易され、同二十一日城を明け渡した。長沼城は廃城とされて取りこわされる大事件となった。


写真5 長沼城主佐久間勝之寄進の大灯籠(上野東照宮)日本三大灯籠の一つで「おばけ灯籠」といわれている

 長沼知行所五〇〇〇石の勝盛は、正保(しょうほう)三年(一六四六)八月二十九日二三歳で若死し、翌四年嗣子無(ししな)く絶家改易に処された。赤沼知行所三〇〇〇石の勝興(かつおき)は寛文四年に病死し、初代長沼城主勝之の三男勝種の二男盛遠が養子に入り同年十二月家督を相続した。天和(てんな)三年(一六八三)八月、実父勝種はゆえあって大島流刑に処せられ、連座して盛遠も所領を没収され赤沼知行所は廃絶した。蓮生寺跡が赤沼館跡である。

 長沼城関係遺跡は、内町城跡のなかに「扇池跡」があった。今天王宮と呼んでいるところは東の方は土堤になった。馬場・表町・鍛冶町の地名がある。城の扉は玅笑寺(みょうしょうじ)に、墓は貞心寺にある。


写真6 長沼城主の子、 佐久間勝年の墓(貞心寺)