幕府領時代

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貞享五年(元禄(げんろく)元年・一六八八)から慶応(けいおう)三年(一八六七)までの一八〇年間、長沼は幕府領(天領)であった。幕府の直轄地である。領主、代官支配のもとに、村方三役(名主・組頭・百姓代)の組織、五人組制度があり連帯責任で年貢を納めたりした。

 寛保(かんぽう)二年(一七四二)成(いぬ)年の「戌の満水」といわれた大水害に、住民は深刻な打撃を受け、他地区へ移住した人たちもあった。水害後に幕府は千曲川の国役普請をおこない、直轄工事を実施している。その後も、安永(あんえい)五年(一七七六)三月六日から五月四日までの普請(ふしん)があり、天明(てんめい)元年(一七八一)の水害のときには、同二年三月から四月二十一日まで幕府役人今井勘助・猪又直之進が来て監督し普請をおこなった(大町方面)。天明七年水害のときは、十月から十二月まで普請をした。天保(てんぽう)八年(一八三七)の水害のとき、村山一里塚以北四三五間(七九一メートル)の普請(千曲川普請と呼ばれた大普請)がおこなわれている。長沼地区では、たびたび重なった水害の体験をいかして、ふだんから水害に備えて、建物の敷地を土盛りや石垣で高くし、二階とか屋根裏をつくり、筏(いかだ)を組める材料を屋根裏に備えておく。大麦粉(こうせん)・米の粉・いり豆も用意しておいた。

 元禄十五年(一七〇二)郷帳の、長沼地区の石高は四二六七石余、天保五年(一八三四)の郷帳では、四三八八石余で、一三二年間に一二一石余増えている。洪水のつど耕地が川欠(かわかけ)や不毛の地となりながらも、これを克服してきた。水災常襲地の千曲川べりは村の共有地の割り地として、災害を平均化した。

 赤沼は天和(てんな)三年に、幕府領になり、以後幕末まで幕府の直轄地であった。ただし、正徳(しょうとく)元年(一七一一)から五年にかけて飯山領主青山大膳亮預り所となり、明和(めいわ)五年(一七六八)から七年までは越後高田藩榊原氏の預り所となった。また、慶応元年に松代藩真田氏の預り所となって明治におよんでいる。