長沼宿

640 ~ 641

上町 長沼は戦国時代以来、松代城・長沼城を連ねる本通りで、天正(てんしょう)十一年(一五八三)上杉景勝、慶長(けいちょう)七年(一六〇二)森忠政、同十六年には松平忠輝か、それぞれ牟礼から香白(かじろ)坂(神代坂豊野町)を通って長沼へ通行するように命じている。慶長十六年他の宿とともに北国街道松代通りの宿として指定された。屋代から松代・川田・福島・長沼を経て牟礼へ通じた。しかし、同年、牟礼と善光寺を結ぶ道路も北国街道として公認されたため、以後しだいに善光寺まわりが本通りとなった。市村(丹波島)の渡しが川止めで通れないときでも北国街道松代通りを通るので「雨降り街道」ともいわれた。

 正徳(しょうとく)元年(一七一一)に、人馬不足のときは相対(あいたい)で近郷から人馬を雇って宿役をつとめるよう命じられている。その後、大通行のときは下駒沢(しもこまざわ)・金箱(かねばこ)・富竹(とみたけ)・権堂(ごんどう)・中御所(なかごしょ)・荒木(あらき)・千田(せんだ)・栗田(くりた)・三才(さんさい)・上駒沢・上野(うわの)・問御所(といごしょ)・西条・稲倉(いなくら)・真光寺・坂中・台ヶ窪(だいがくぼ)・袖之山(そでのやま)の一八ヵ村から助人馬(すけっとうま)を出すことになっていた。また元文(げんぶん)四年(一七三九)、長沼上町から願いでて、神代宿を新設してもらった。このとき、津野・内町・六地蔵町・栗田町・村山の五ヵ村が上町の、赤沼・河原・中尾の三ヵ村が神代の定助郷(じょうすけごう)と決められた。

 明和(めいわ)四年(一七六七)、神代宿が長沼上町助郷一八ヵ村の一部を神代へ割愛してもらいたいと訴え、同九年、上町は一七ヵ村六六七〇石が助郷と定められた。金箱・富竹・権堂・問御所・中御所・荒木・千田・栗田・下駒沢・上駒沢・上野・西条・真光寺・三才(以上幕府領)、三才分け郷・田子・吉村(以上飯山領)の諸村である。

 弘化(こうか)四年(一八四七)四三戸、本陣・問屋があった。本陣西島家には上段の間が残っていた。高札(こうさつ)「定(さだめ)」(公定駄賃)、加賀藩ほかの藩印などが現存する。道の中央に馬を洗ったりする水路があり、馬をつなぐ並木があった。公定駄賃は寛永(かんえい)十一年(一六三四)、長沼・神代間六文、長沼・善光寺間三四文で、その後増額を重ねる。大町林光院の境内入り口には「右はえちこ(越後)道、左はせんくわうじ(善光寺)道」と書いた石標が建っている。


写真7 本陣上段の間(西島敏博宅同所蔵)


写真8 道標 大町林光院境内入り口