中野騒動

641 ~ 642

明治三(一八七〇)年九月長沼村は中野県になった。同年十一月、松代藩全領をまきこんだ大きな百姓一揆が起こった。松代商法社札(松代藩商法社発行の紙幣)で税を納めるとき、額面相場より低く見積もられたこと、石代納(年貢金納)の換算率が高かったことなどが理由だった。それが成立したばかりの中野県管下にも波及した。石代納相場の引き下げや、中野県のつくった北信商社の廃止などを要求して同三年十二月十九日、高井野村(高山村)の農民たちの蜂起に始まり、騒動は三日間にわたり中野県下をまきこんだ。長沼には首謀者こそいなかったが、村役人お預けとなった人は幾人かいた。この中野騒動で中野県庁が焼亡したことから、県庁は長野村に移され、明治四年六月二十二日長野県が成立し、長沼地区もこれに属した。なお、今日の長野県が成立するのは明治九年である。