水論

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大正十三年(一九二四)は明治十九年以来の大干ばつで、七月九日から、五五日間雨が降らなかった。各区から例年の二倍の人足を鐘鋳堰(かないせぎ)の取り入れ口に出し、簗手(やなで)の構築時間の厳守を見守っていた。鐘鋳堰関係の人足も暮れ六つから明け方までは簗手を組んで自分の堰へ水を引き、明け方より暮れ六つまでは栗田組合が簗手を取り除き、長沼組合がそれを見張り番することを繰りかえしていた。水不足が深刻となり、「六つ」についても「日没だ、いや暮れ六つだ」と議論となり、小競り合いが争いの発端となり、八月十四日には各組合とも一戸一人という大動員となり、手には備中、腰には握りめしをつけて、現場の鐘鋳堰取り入れ口へと集結し、八月十五日には双方とも暴力ざたとなった。さらに八月十六日には、大挙再動員して現場に押しかけてみると、鐘鋳堰組合で仮処分がとられていて施すすべもなく解散となった。その後引きつづき、規定の慣行は守られていた。番水の木札は四枚あって、常に大町の用水総代宅におき、渇水期がくると各区から人足をだして、一人は小島の大土居、一人は一二の分水口、一人は三条の分水口、一人は妻科の大口分水口の見張りをして、夕方四時ごろまで水番と称して、各分水口に一日中立ち会っていたわけである。このような水争いによる訴訟事件がもととなり、やがて善光寺平農業水利改良事業の建議へとすすみ、犀川から引水するようになった。