用水の慣行

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長沼用水組合は毎年、苗代(代掻(しろか)き)には山王分水口から小島大土居にいたるあいたの各分水口に、土俵を置いて水を融通する。山王口一五俵、南八幡口五俵、八幡口五俵、七瀬口一俵、高田口三箇所とも各一俵、三条口三俵、布野口一俵。日数はおおよそ一〇日間、前後一日の伸縮がある。非常干ばつ時には長沼組合が上流各分水口からの融通水を頼んだ。非常干ばつ時には鐘鋳堰(かないせぎ)用水の取り入れは、一六時から四時までの夜水だけとなった。非常干ばつが数十日になるときは、裾花川水源に登山し、流水をたたえているところを切り払い流水増加をおこなう。明治十九年と大正三、四年に鬼無里・戸隠で実施した。長沼地区は末流にあって用水確保に努力し、水利権が確立している。善光寺平農業水利改良事業が進められ、犀川・裾花川の頭首と導水路工事が昭和十一年に完成した。長沼の水田面積は明治七年(一八七四)二四〇ヘクタールあったが、平成二年(一九九〇)四七ヘクタールと約五分の一に減っている。


表2 長沼の石高の変遷