養蚕

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明治十三年(一八八〇)、地区の繭生産量は二七九八貫(約一〇トン)(『町村誌』)。大正八年(一九一九)、一万九八九〇貫(七四・六トン)、養蚕戸数三七一戸。昭和三年(一九二八)、三四九戸。昭和十五年、一万二八四二貫(四八トン)、一八八戸である。

 長沼地区の養蚕は明治中期から盛んになり、大正末期から昭和初頭の最盛期には耕地の八割が桑園となり、繭価低落の昭和四年以降桑園は減りはじめ、第二次世界大戦中完全に姿を消す。りんご収入確立以前の大切な収入源であった。大正九年ごろの繭一貫目「三・七五キログラム)八円から一〇円、昭和二年過ぎに糸価が暴落し、繭一貫目一円五〇銭となり、りんご栽培へ転換する農家が続出した。