杞柳(きりゅう)は、明治三十年代末ごろから、赤沼集落の西方の湿地帯で栽培が始められた。明治四十年ごろこの付近の地価は、一坪(三・三平方メートル)当たり五銭くらいで、当時、米一升(一・八リットル)の値段が一四銭ほどだったという。大正十年に約三三ヘクタール、昭和二年約三八ヘクタール、昭和四年約三・五ヘクタールで、第二次世界大戦ごろにはほとんど姿を消し、りんご園と水田に変わった。
長沼杞柳
杞柳(きりゅう)は、明治三十年代末ごろから、赤沼集落の西方の湿地帯で栽培が始められた。明治四十年ごろこの付近の地価は、一坪(三・三平方メートル)当たり五銭くらいで、当時、米一升(一・八リットル)の値段が一四銭ほどだったという。大正十年に約三三ヘクタール、昭和二年約三八ヘクタール、昭和四年約三・五ヘクタールで、第二次世界大戦ごろにはほとんど姿を消し、りんご園と水田に変わった。